2013/10/31

Īśvara-Praṇidhāna イーシュヴァラ・プラニダーナ


 先日、ShizenヨガスタジオからĪśvara-Praṇidhāna (イーシュヴァラ・プラニダーナ)の解説を依頼され、改めて今の自分がこの教えをどうとらえているのか見直すきっかけをもらいました。



Īśvara-Praṇidhāna
「全ての源であり、全てを司っている大いなる力を完全に信頼してゆだねる」

Īśvara=いのちの根源、宇宙を動かしているもの、全てを統括しているもの。
言葉では説明出来ない、マインドでは決して捉えきれないもの。
それを人は、神、と呼ぶ。
Praṇidhāna=完全に常につながっていること、ひとつになること、自分を明け渡すこと。

Īśvara-Praṇidhānaは、神への献身としてよく訳される。
けれど、神という言葉に馴染みがなかったり、違和感がある人には、この訳は、非常にとっつきにくい。
実際は、Īśvara=神は、そこいら中に存在しているものを指し示している。
もっというならば、Īśvaraでないものなんて、この世に存在してない。
例えば、心臓の鼓動が今起きていること、
例えば、理由なく嬉しい気持ちがやってくること、
例えば、急に自分の中の深い闇に遭遇すること。
そのすべてにĪśvaraが生きている。
本当は、深く考察する必要も、無理に信じようと努力する必要もないぐらい明白に存在しているもの。それが、Īśvara

Praṇidhānaとは、ある姿勢だと思う。
自分の頭の中の小さな世界から飛び出し、
宇宙規模の大きな働きへ意識的につながろうとする姿勢。
なにを心に置いて生きるか、自分のチョイス。

今の私にとって、Īśvara-Praṇidhānaとは、
あらゆる状況において、自分の直感を信頼するという選択肢を取ること。
自分のビビったマインドが何をごちゃごちゃ言おうと、自分より知識のある人がもっともらしいアドバイスをくれようと、それよりなにより自分の中にある「好き!」という感覚、「楽しい!」という感覚、「これがしたい!」という感覚を信頼しその流れにゆだねる。
そして、最後までやりきる。ようするに、言動の責任を取る。
結果はどうなるかわからない。結果は、神の領域だ。手出しはできない。
ものすごく楽しい思いをするかもしれないし、ものすごく大変なことに巻き込まれるかもしれない。だいたいその両方が起きてくる。
それでも最後まで、自分という存在が、大いなる働き=神とつながっていることを信頼して歩み続ける。
この世の光と影の両方を味わい尽くす。
そして、それが、どのような体験であっても、楽しむ。
ぐっちゃぐっちゃの泥にまみれるのや、大雨に打たれるのも、「生きてる!」という実感を与えてくれる。
この自分の人生って言うドラマほど、面白いドラマは、どこのテレビでもやっていない。
他のどこにもない「自分」ほど面白いものは存在しない。
インド古来の叡智ヴェーダはこう詠っている。
「宇宙は完全である。完全から完全を取り去っても、完全のみが残る。」
だから、私のĪśvara-Praṇidhānaの実践は、完全である宇宙から生まれた自分のハートの声に信頼をゆだねて、未知の世界に足を踏み出すこと。

難しいのは、どれが、自分のハートから来る直感で、どれが、自分のマインドから来る嘘かを見分けること。これは、一つ一つ人生の階段を登りながら実際に体験を積んで、判断できるようになる以外、近道はないと思う。

疑ったり、不安に思ったり、怖がったりするのは、マインドが大得意なこと。
信頼してゆだねることは、マインドにとって、とってもとっても難しい。
何しろ、マインドの性質は、何かをつかむ事、過去を今に塗り替える事、未来のストーリーを作ることだから。マインドが変に働くと、心がざわざわしたり、呼吸が浅くなったり、体の調子がおかしくなったり、気持ちが重く苦しくなる。

ハートから信頼してゆだねることは、手放すこと、今に在ること、余計な手出しをしないこと。
これは、私達の本来の姿。
思い出してみると、この地球に生まれた時、私達は、全ての存在を完全に信頼してゆだねていた。
手も足も自分では動かせず、言葉も話せず、自分の生命を維持する方法もしらなかった。
全て周りの存在に任せきっていた。
そして、幸せだった。
なぜなら、自分という存在の奇跡そのものを生きていたから。
ひと呼吸、ひと呼吸が奇跡の賜物、神からの恩寵。
それを言葉ではなく、全身全霊で感じて生きていたから。
だから、私たちは、全員、ハートからの直感で信頼して生きることを知っている。
直感と共に生きている時、私たちは、ハートが開いてワクワクする、呼吸も体も気持ちがいい、例えどこか悪いところがあってもそれほど気にならない、エネルギーが無尽蔵に湧いてくる。

命の始まりには、信頼しか存在していなかった。
そして、命の継続には、信頼が必須。
みんなが、信頼してないで、どうやってこの社会が回るだろう?
どうやって信頼なしで、高速で80キロ以上ものスピードを出して、ほとんどの人々が運転できるんだろう。信頼は=Īśvara-Praṇidhānaは、生活のそこかしこに生きている。

私たちは、命を守るために、自分を守るために、マインドをたくさんたくさん働かせて傷つかないように生きなさいって教えられてきたけど、本当は、マインドを使って自分を守ろうとすればするほど、苦しさが増していってないだろうか。
何かをつかめばつかむほど、自分本来の力は弱まっていってないだろうか。
先を描けば描くほど、心が重くなっていないだろうか。

だから、パタンジャリは、本当に自分を大切にしたいなら、
手を放しなさい、ゆだねなさい、信頼しなさい、と伝えたのだと思う。

「言うが易し行うが難し」
Īśvara-Praṇidhānaは、実践するのが、めちゃくちゃ難しい。
だけど、Niyama(自分との関係を豊かにするための心構え)の最後にĪśvara-Praṇidhānaが書かれているということは、先に書かれたNiyamaを日々の生活の中にすこしづつ取り込みながら道を進んでいけば、Īśvara-Praṇidhānaがなんなのか自ずと見えてくるってこと。

だから、ヨーガスートラの第二章の始めには、Tapas(浄化の行/苦行)Svādhyāya自分を理解すること/聖典の学習)が、Īśvara-Praṇidhānaの前に示されている。

だから、まず、信頼してゆだねることができないときは、その自分を信頼しましょう!(笑)
つまり、疑いまくり、ネガティブになりまくり、ストーリーを描きまくり三昧です!
どうしようもない時は、どうしようもないんだ!その流れに流されよう。
でも、苦しいよね。

そしたらさ!ヨーガをしようよ。
アーサナでも、呼吸でも、瞑想でも、チャンティングでも、教典を読んでもいいよね。
それでさ、外に出る元気がちょっとでも出たらさ、スタジオにおいでよ。
一緒に心と体のお掃除をしよう=Tapas
一緒に自分を見つめてみよう。= Svādhyāya
一人ではできなくても、仲間がいればできることがたくさんある。
私たちは、あなたが、 Īśvara =神の子供であることを思い出す手助けを
それぞれの方法で用意して待ってる。
さあ一緒に、「自分」という名の奇跡の大冒険に出かけよう!!!


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